ふり返ってみれば

 

ブログというものを全く理解していないのかもしれない。前回の更新日を振り返ると1年前とあった。日常で起こる出来事や心情を書き留めておく日記のような扱い方はいささか難しい。

 

1年前の書き殴られた自分の文章を読んで、人はここまで変化するのかと驚いた。精神的や、環境面でも。1年前、折の合わない両親と同居し、不自由な生活を送っていた。何のために日々を過ごしているのかと毎日をつらい気持ちで送り、夜な夜な家出を繰り返しては、河川や公園で物思いに耽っていた。ある夜、私と父との間で逃れようのない衝突が起こり、見かねた母が一人暮らしを勧めてくれた。彼女のおかげで、現在では、悠々自適に羽根を伸ばして暮らしている。突然、誰かの不機嫌を目の当たりにすることもなく、ヒステリックに怯えることもない、そんな生活を生まれて初めて味わっている。このような生活は初めてで、なんて幸せで平和な暮らしなんだろうと思う。家を逃げ出すように飛び出たのが、約8か月前のこと。その時から、実家を訪ねることはあれど、一度たりとも寝泊まりしていない。そこまで両親のことが苦手だったのかと少し笑えて来る。もちろん学費や生活費の支払いを援助してくれている両親に対して有難いと感じる。しかし、お金さえ払えば子供を言いなりにしていい権利は親にはないのである。この話はまだ消化しきれていない部分であるので、言及するのは避けておく。実家で暮らしていたころ、「ゲシュタルトの祈り」を紙に書き写し、壁に貼っては、繰り返し暗唱していた。私のせいではないと、彼らの感情に責任をとらなくていいと、そこから逃げ出していいと、洗脳と罪悪感を解くために。ずいぶん頑張ったなぁと今になってしみじみと思う。自分であることを、感情を誰にも奪われたくなくて、必死だったんだなぁと思う。よくやった私、えらいぞ。

自己愛

自分のことが可愛いくてしかたない。もうこれっぽちも傷つかないように守りを固めている。平々凡々な自分を認められずに、どこか特別な扱いを望んでいる。実力も地位もない私にできることは不幸アピールをしてかわいそうな人として「特別」であり続けるしかないのかもしれない。幸運にも、私の友人たちはこの子供じみた行為にめんどくさがりながらも付き合ってくれている。

 

メンヘラ。愛着障害。生きづらい人たちには、精神が年相応に成長することができていない。他人に対して無条件の愛を欲しがり続けている。無論、そんなものをくれるのは保護者以外にいるとは思えない、彼らはそれでも承認されようと空回りしつづけるか、はなから諦めてしまっているのである。

 

人間は本当に一人じゃ生きていけないのだろうか。完全に孤独で生きていくことは不可能でも、人とのふれあいをサービス業に頼むことで、健全な愛着の人々を傷つけることなく生きていけるのではないか。笑われずに済むのではないか。

 

陰鬱をこねくり回しながら、ここまで歳を重ねてしまったけど、私はなにも成長できていない。他社への関心の薄さと、拗らせた自己愛、無責任さと衝動性は小さなころとなにも変わっていない。私を好いてくれる人のことは常に見下している。なんてセンスがないのだろう。ろくな苦労も知らずに生きてきたのだろうと軽蔑してしまう。

 

どこまで逃げても環境を変えても私がついて回る。自殺したいと言いながらも結局は己が可愛いくて実行するには至らない。はやく自殺する勇気が欲しい。疲れた

慢性疲労

父の罵声と、母の言い返す声と、兄のうろたえた姿は、私が物心ついたときに覚えている光景だ。母が言い返すから悪いのだと思った。すべて従っておけば私のように父から溺愛されるのに母はなんて愚かなのだろうと思った。一方で、母親を心配していた。なるべく私の素行が母にとっての心労とならないように、よい子供であろうとした。

 

これを書いたところでなにになるのか。現在の私にとってなにか良い変化をもたらすのかは明らかでない。吐きそうだ。どこにも行き場所はなく、周りに誰かがいたとしても私は一人だ。心を通わせることはないと思う。心配することはあっても、心配されることはない。またもし気遣われたとしても、その中には哀れみや同情が含まれていて、やはり私は一人なんだと痛感する。私の暗い過去を笑い飛ばしてくれる誰かに会いたい。

 

これはコントだ。笑ってもらえないとこれまでの不幸が本当にかわいそうな人生だったと認めなくてはいけなくなる。

普通を認められない

この人生で子供を持つつもりがないのだが、そうなると誰かに大きな影響を及ぼすこともなく死んでいくのだろう。そもそも子供を持ちたいなんて考えるやつは一体何を考えているのか。そんなに自分にとってのイエスマンが欲しいのかと思ってしまう。これは両親と折が合わなかったせいもあるというか、それしかないのだが。

 

なんの為に生まれてきたのだろう。いつも思考の中枢にあって、ふと時間が余ったときに支配されるテーマなのだが、所詮人間など遺伝子の乗り物にすぎないというにはまだ未練がましく目的を探している毎日だ。類まれなる秀でた才能はなく、また精力的に生きようといった情熱も見受けられない。ただ毎日を陰惨と生きては、こうしてインターネットの世界で普段自己主張できないうっぷんを晴らしている訳である。

 

あらゆる分野で突出した才能は見受けられず、ただただ傷つきやすく、そのくせプライドだけはエベレストの如く高い自分を受け入れられない。等身大の自分を受け入れられないのは、両親からの過度の甘やかしや自分の気に入らない娘であったときのヒステリックな罵声とは何か関係があるのだろうか。私は、自己愛性人格障害なのだろうか。

 

自己評価がジェットコースター並にめまぐるしく変わる。最高か最低かのどちらかである。自分が他人以上に良心に欠けていることから目を背けている気がしてならない。そして人間失格の竹一のように、私の善良な人間のふりをしていることに誰かが気づいてしまうのではないかと恐れている。一方で、はやく見抜いてほしい願望もある。何事も中途半端なときが一番恐ろしいのだ。この間は、初老の母親につかみかかり初めて叩いてしまった。誰か助けてくれ。

I Stopped To Take STRATTERA

I stopped to take Strattera. Because of a secondary effect. I cant stand it. Especially, I was suffered from no appetite. I became to skin and borns.

However, I have lost my wallet since I stopped it. I was shocked the accident.

I remember my past self to take it. I often was be late for a plan. And I did a mortifying failure. Im very anxiety about the days from now on.

はやく隠居したい二十歳

私は誰なのだろうか。この考えで頭がいっぱいになることが生活の中でよくある。漠然とした不安があるのだ。日々、他人に同調し流される毎日を消費していると、自分という確かな感触が曖昧になっていく感覚がする。人間はせわしない。一日の中で、あらゆる選択を瞬時に行わなければならない。非常に不愉快だ。前日に降った雨が空気を湿らせていることに敏感でありたい。日々あらゆる選択肢を熟考する暇もなくこなしていく毎日ではそうはいかない。そんなことに心を感じさせていては、声の大きい人間によって簡単に心が蝕まれてしまう。いちいち気にしない為には最大音量でミドリを聴いていればよい。サティを聴いている場合ではない。

見捨てられ不安

私は自分のことを回避性人格障害だと思っている。

ネット上では映画「グッドウィルハンティング」の主人公は回避性人格障害だといわれている。私は主人公に非常に共感した。私たちは、人から捨てられる前に捨ててしまう。それは見捨てられ不安のせいだ。完璧な自分のイメージを壊したくない。心理的な距離が近くなることは、重圧となる。

 

I think i'm Avoidant personality disorder. A hero in a movie "Good Will Hunting" is considered it. I sympathized him. We break with people in my heart before we are broken by them. Because of abandoned anxiety. I dont want to break a good impression.

I am unable to bear pressure if I feel that the psychological distance is close.